有名な格安 北海道スキーツアー

『処女峰アンナプルナ』は、それ故に、山岳書としてより人生読本として私の記憶に残っている。 一人の青年をふるい立たせる熱気を含んだ、扇情的な本だった。
その後、本格的に山へ登るようになった私は、ついにヒマラヤをめざす登山家になった。 私か初めて『処女峰アンナプルナ』を読んでからI〇年ぽかりたってからのことだ。
その間に、同書の登場人物たちは、私の心の内で伝説上の男に変わっていた。 アムールのために死んでもよいとするフランス映画の伝統にも共通するなにかがある。
名匠、ジュリアンーディヴィヴィエが作った、『望郷』という映画がある。 主演のジャンーギャヴァンが、最後の場面で港の鉄柵につかまったまま、去り行く女を乗せた船をみて自殺する。
あれはフランス人の肯定する、情熱にかられた死なのだ。 イギリス人ならそういう行為を評価しないであろう。
かつてS田巽氏は、イギリス人気質を論じて、「イギリスのエリートは、自分の感情を表へ出さないことをもって、よしとする」といっておられた。 イギリス人の書いた山の本のなかには、どれといって『処女峰アンナプルナ』のようなものはない。

イギリス人の美徳は、フランス人のそれとはちがって、限界的行為をさりげなく書くことをよしとするらしい。 その後、ヒラマヤ登山の経験を積んだ私は、『処女峰アンナプルナ』の登り方を、高所登山技術の観点から批判的にみるようになった。
現在のヒマラヤ登山の知識をもってすれば、アンナプルナの登り方は無茶である。 あと知恵をもって、そう解釈することはできる。
たとえそうであったからといって、『処女峰アンナプルナ』の価値が落ちることはない。 むしろ、現今の利口ぶった若者に対して、この本の価値は、以前より高いといってもよい。
私の心に残る山の名著である。 日本は、腐敗堕落国家である。
腐敗は、政治家や役人だけに限らない。 日本人一般が、まんべんなく腐っている。
山の世界までもが腐敗している。 純然たる山岳小説といえば、F田久弥の『雪山の一週間』などは、K藤文太郎をモデルにした、心理小説風の短編として、私の記憶にある。
新田次郎の作品は、有名な中編『強力伝』を読んだだけで、その他の作品を知らない。 私には、山岳小説全般を論ずる資格はないが、登山に関する出版が低調な時代だけに、この際、山岳小説の面白いやつを誰かに書いてもらいたいと希望しつつ、この文を書く。
面白い。 前者の主人公マーティンーオードウェイは恋人のもとへ帰って来るが、後者の主役魚津恭太は、三角関係に悩んだあげく、滝谷の単独登山で、自殺めいた遭難死をとげる。
そもそも、オートウェイはアメリカの空軍将校で、ドイツ爆撃に向かう途中、撃墜されて、落下傘で、あるスイスの寒村に降り立つ。 その突然の隔離によって戦闘行為から開放され、白い峰を登ろうと決意する。
魚津の場合、戦争はまったく意識のうちにない。 山の小説に戦争が出てくる必要は必ずしもないのだが、『白い峰』と『氷壁』を比べた場合、私の感性には、戦争を案配した『白い峰』のほうに、より強く訴える力があるように感じた。

私は、『白い峰』の十一年あとに書かれた『氷壁』に、同じような形で、戦争を入れろと注文するつもりはない。 ただ、『白い峰』の導入部で、戦闘に疲れた空軍将校の姿が描かれていることによって、この物語のスケールが大きくみえてくる。
そのような小説作法上の効果を、とりあえずいっているのみ。  日本の国会議員が戦後五〇年の決議にどのような文句を入れるかで、もめにもめている愚かな姿をテレビや新聞で見聞するにつけ、作家を含めた日本の知識人が戦争にふれることを避けてきた怠慢を痛感する。
そういう視点から、恋愛小説作家井上靖の限界を私はひそかに感じさえする。 井上は、面白く読ませるための無類の話術を持った作家だから、読者は彼の小説を抵抗なく最後までつられて読み通してしまう。
『氷壁』は『白い峰』より大分読みやすかった。 一般に日本の読者は、英語圏の読者より読書能力が劣るようだ。
そのことは、英語で書かれたベストセラーが日本語のそれらに比べて、かなり言語量の密度が高いのをみれば、納得できることであろう。 英語人口が日本語人口の十数倍いることを考えれば、仕方のないことでもある。

『氷壁』は、日本語読者のために書かれた分だけ読みやすくはあるが、それだけ食い足りないことにも納得がゆこうというもの。 『氷壁』のもうひとつの弱点は、当時、世間を騒がせていた「ナイロンザイル切断事件」が、物語の根幹に利用されていることだ。
ナイロンザイルが「岩角で切れた、切れない」に関する名誉棄損告訴事件で、小説のなかでは黒白をはっきりきめないままに、曖昧な形で、見方によっては巧みに処理されている。 このことは、作品が書かれた時点ではモデル小説として読者の注目を集める一大効果を産んだものの、それから三分の一世紀たったいまとなっては、この本の存在価値をかえって少なくしていると、私は思う。
 実際の事件を目撃している者にとって、『氷壁』に描かれた架空の華やかな三角関係は、かえって非現実的な絵空事にみえるから、逆効果なのである。 こういう事件は、社会派推理作家松本清張くらいが書いたほうがよかったのではないか。
松本ならば、同じ題材にもっと社会性を加味して、登場人物の関係をトロトロした人間心理の葛藤に仕立てあげたことだろう。 実際にあった遭難事件は、甘い恋愛小説の種になるようなものではなかったから、無理に恋愛物語として書けば非現実的になる。
一方、『白い峰』には教養小説的な健全さがあって、そこが私の好みに合う点だ。 ナチスの将校は、名誉のために登りつづけて、命を捨てる。
彼の蒼白の顔面には、「死への願望」があった。 オードウェルは、頂上をあきらめて愛をとる。
戦争はつづく。 恋人の女性も逃避の場であったスイスを去って、祖国オーストリアへ帰る。
女は白い峰に挑戦した経験から、現実を直視する勇気を回復したことになる。 アルマンは戦いに勝った側の作家だから、そのように前向きの話を書くことができたのであろうか。
負けた国の作家井上は、魚津の死という敗北の物語しか書けなかったのか。 「『氷壁』の魚津が、きれいな二人の女に惚れられて、なぜ山へ死に行く必要があったのか。
彼の気がしれない」。 これが、私の井上作品に対する、冗談めいた批判であった。

『氷壁』の本質は、メロドラマであるといえそうだ。 映画『白銀の嶺』は、画面に、当時まだ日本では手に入らなかったナイロン装備がふんだんに出てきて、日本の登山家を驚かせた。
そんなことも、隔世の感をもって思い出す。 映画『氷壁』は、あの頃の日本人の登山熱に油をそそぎ、若い登山者の服装にまで影響を与えた。
いまの若者が、『氷壁』の書かれた時代を想像することは、むずかしくなりつつある。 「岳人」は、I藤洋平氏によって一九四七年京都で創刊された。
I藤氏二四歳、私一一歳のときであった。 後年、Y川茂雄氏が復刻した創刊号から一三号までの「岳人」を興味深く読んだ記憶はあるが、あの復刻本もいまは手元にない。
I藤氏は私の世代にとって一種伝説上の人物で、筆も立ち写真も撮り、翻訳(『K2−非情の山』)もした。 足跡は冬の利尻からヒマラヤ、南極にまで広がり、それらの体験をつづった写真集も本になっていた。